企業(特に法人)は何故、その存在を許されているのか?     

~ 企業が一番大切にしなければならないこと ~

自由主義経済の社会では、原則として個人は自由に経済活動を主なうことが出来ます。

当然、利益追求を行うことも自由です。
歴史的に見れば、個人の活動に時間的また物理的等様々な限界を感じた人々が、
より大きな利益を得る為、より多くの資金を集めて、より大きな規模で経済活動を行い、
そこで得たより大きな利益を資金提供者に配分する方式を生み出します。
~株式会社の誕生です。
世界史の教科書にも出てくる東インド会社。

特にオランダで1602年3月20日に設立された、それは世界発の株式会社として知られています。
しかし、東インド会社は単なる事業会社の枠にとどまらず(勅許会社でもあったので)
やがて、列強の代理人として、謂わば、「帝国主義」の先兵として、交戦権や条約締結権をも
有し、植民地経営を行うようになります。
つまり、実質的な植民地の統治権まで獲得していったのです。
勿論、列強の国々は、これらを全面的にサポートします。

そういう意味では、東インド会社は、国策会社そのものと捉えることも可能ですが、
一方で、企業自体に内在する、拡大志向・時にとして暴走する懸念が実際に顕在化した事例と見ることもできるでしょう。
現代世界でも、GAFA等にみられるような一部巨大企業がその企業活動によって、
結果として、大きな社会変革を引き起こしつつありますが、
他方、これらの活動に伴う個人情報・著作権保護・独占禁止法上の懸念が叫ばれ、
各国で訴訟や調査が行われていることは皆様ご承知のとおりです。

利益追求から始まった企業活動は、時としてその想定を打ち破る存在にまで拡大・成長し、
遂には制御不能な存在にまで達することが起こり得るのです。

では、利益追求は悪なのか、企業は否定すべき存在なのでしょうか?
—勿論、これが極論であることは明白でしょう。
では、企業のレーゾンデートル(存在理由・存在意義)とは一体なんなのでしょう。

日本でも人気が高い、経営学の泰斗、ピーター・ドラッカーは「事業の目的は、顧客の創造である」と言いました。
私なりの言葉で言えば、企業は「人間(個々人)を幸せにする為のツール」であり、
その為にこそ、存在を(法的に)許されているものだと考えます。
つまり、多くの人を幸せにすることこそ、企業の使命と考えます。

企業が関係する、あらゆるステークホルダーを満足させ、その欲求を満たし、その希望を実現することです。

勿論、ある人間の幸せは、時に、別の人間の不幸せになることもあります。

だからと言って、多数決や「最大多数の最大幸福」の形式的スローガンで、「社会の幸せ」を追求すれば、それで良しと言う発想を私は採りません。
少数派(マイノリティ)を切り捨てることは、その時、その地域で、たまたま多数派であった者による横暴であり、傲慢と思うからです。

前記スローガンの主張者であり、功利主義の創始者本人のジェレミ・ベンサムですら、「私的不可侵領域」を重視し、多数派による少数派の犠牲に反対しました。
また、個人の幸せの追及を是としても、「私利(私欲)」を優先させる考え方は許されません。
何故なら、企業・法人はもともと(法によって存在が認められている)社会的存在だからです。
社会的存在である企業(法人)を一部の関係者の個人的欲望(幸せ)の追求だけの為に運用することは制度の目的に抵触し、制度自体を否定することに他なりません。
もし、企業活動により、誰かに不幸せが生じたら、企業を挙げて、その是正に取り組むべきであり、独占禁止法の趣旨も同じ立ち位置にあると理解しています。

勿論、「幸せ」と言うものは、個々人によって異なる、謂わば、感性の世界に属するものでもあるので、一律に言葉だけで論じるには限界はありますね。

功利主義の立場を採るにせよ、そうでないにせよ、企業が「個々人を幸せにするのが目的」と
言う姿勢(スタンス)を貫いて活動を続けていけば、
やがて、その企業に関係する多くの関係者≒ステークホルダー(従業員、出資者、役員、得意先、仕入先、地域、行政機関等)に、そのスタンスに対して賛同・支持する輪が広がり、必ずや中長期的には、その企業を発展させることと確信しています。

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